嘘つきは民族主義者のはじまり、あるいは民族主義は嘘つきのはじまり

このお話はセカンドカップのコメント欄からの続きです。

http://d.hatena.ne.jp/Soreda/20050324

最近、アイスランドに行く機会がありました。あんな北なのにメキシコ暖流のおかげで気候は驚くほど穏やかです。かつては緑に覆われていたそうで、壮大な温泉露天風呂とかもあったりして、どうしてもっと日本観光客に人気がないのか、不思議なくらいです。

そこで、面白い話を聞きました。
アイスランドのさらに北には氷の国、「グリーンランド」があります。問題は、何故、氷の固まりが「グリーンランド」で、緑のある気候の穏やかな島が、「アイスランド」と呼ばれているのでしょう??

現地の人にきいてみました。

アイスランド人の祖先というのは、北欧からやってきたバイキングなのだそうですが、まず最初にその島を発見したとき、その気候の穏やかさ、緑の多さに大変感動し、自分たちの仲間だけで、その島に暮らしたいと思ったのだそうです。そこでその島に「アイスランド」という暮らしにくそうな名前を付け、また、隣の氷だらけの島に「グリーンランド」という暮らしやすそうな名前をつけて、「アイスランド」に仲間以外の者が近寄らないようにしたのだそうです。

仲間のために嘘をつく、まさしく民族主義の基本ですね。



追伸:Swanさんnoharaさんへのお返事は近日中にします。

愛国心は錯誤か?

先日のコメント欄の続きです。

Swan-slab sannへ


マルキシスト的な考え方をしていくと、「愛国心」=「虚偽観念(イデオロギー)」=錯誤という事になるわけですが、実は私はそうは考えていません。その考え方に沿っていくと「錯誤」を取り除けば、背後にある正しい現実認識へ到達できると想定されるわけです。しかし、私は、人間社会における現実というのは、自然科学によって認識される現実よりはるかに流動性が高く、認識行為自体によって造られるものであるということを忘れてはならないと思っています。

アンソニー・ギデンスは社会学の中心的命題とは、「How the action of human subjects constitutes a social world that in turn conditions the possibility of the actions of those subjects - 如何に人間主体の行動が社会を作るかと同時に、社会によって人間主体の行動は条件ずけられるか」を記述する事にあるとしています。つまり、社会的現実とは、人間が造り出すものでありながら人間を造り出すものでもあります。

人間は家族愛や郷土愛を造り、また家族愛郷土愛によって造られてきました。抽象の次元を広げていけば、愛国心を造り、また愛国心によって造られる事も、確かに可能だと思います。ただし、「家族愛」や「郷土愛」の場合は具体的な人間同士のやりとりに積極的に参加し相互的に培っていくことが可能ですが、「愛国心」の場合は抽象の次元がたいへん高いので、多くの個人に取って直接的な過程への参加は難しく、与えられたものを内面化する以外に無いでしょう。

また、家族や郷土の人間的なリアルさに対し、国家のリアルさというのは全く性質を異にするものです。ホブスに従えば、国家のリアルさというのは先ず第一に憲法によって国民から委託された暴力の独占使用権です。司法立法、徴税、警察、軍事権です。家族や郷土の人間的なリアルさが、愛情を呼び起こすというのは容易に理解可能ですが、国家のリアルさというのは人間を萎縮させ恐怖心をこそ呼び起こせ、愛情を呼び起こすというのは私には理解出来ません。(宮台信真司あたりだと日本人はヘタレだから権力を愛するとか言うのかもしれませんけど。)

国防問題に関して実はそれほど深く考えたことはないのですが、戦争というもの質が9/11以来決定的に変わったことは確かだと思います。それにしても旧来型の国と国とが領土の覇権を争い、国民軍が戦うという図式はますます考えづらくなっていると思います。イラク戦争の状況を見ていても、戦争すらも相当の程度まで民営化が進んでいて、愛国心がどーだと言う世界ではなくなってきているのではないでしょうか? 

 

愛国心の自家発電

このエントリーは「湾曲していく日常」のコメント欄に於けるやりとりの続きです。以下をご覧下さい。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050320


Swan_slabさんの発言には私としても興味のある、きちんと話し合いたい論点がいくつもあるのですが、何せ遅筆故、そのうちの幾つかだけをとりだし、私の立場との相違をまず際だたせたいと思います。大雑把な議論になると思いますがお許し下さい。説明が不足しすぎた場合は、質問いただければ補足します。

>>私見ですが、ロックの寛容書簡の読み方としては、現代の民主主義と人権に関するエッセンシャリズムにどの程度の射程をもっているかという観点から読むようにしています。

とSwan_slabさんは書かれました。もし、これがSwan_Slabさんが仰る人権等ある価値観の「自明性」、あるいはドイツに於ける「自然法の再生」を、ある種戦略的なものとして理解する、という意味であるならば、たぶん私の立場から、そう遠くはないもののように思えます。微妙な立場なのですが、私はあらゆる普遍的道徳律を相対化するポストモダン的な立場に組みするものではありません。が、また同時に、自省のない「自然法の自明性」には強く反対するものでもあります。欧州のある特殊な歴史的文脈の中で「自明の真理」であったことを他の文脈に移植したところで、その自明性は説得力を失うのが通常です。そもそもドイツにおいては自明なものが日本では自明でないからこういう事態になってるわけですから。私の立場は、いうならば、自明ではない道徳律と倫理を、価値観の違うものが戦略的にせめぎ合って、ある程度の普遍性をもつものであると合意形成することを由とします。これ、現実には果てしなく難しいですけど。

で、話は飛びますが「愛国心」です。

問題にしなければならないのは、「よい愛国心」と「悪い愛国心」ではなく、国家という単位がSwan_slabさんが言うところの「共同体の自己保存に関する態度」を表明する対象として、現代においてどの程度適切であるか、ということだと私は考えています。

ある社会学者(Scott Lash)はTonniesのGeimenschaft-Gesellschaft(伝統的共同体ム近代社会)を元に、共同体と社会という概念の違いについて分析しています。Lash によると、その最も特徴的な違いは、「共同体」が文化的な意味や価値観を構築する場であるのに対し、「社会」とは共通の利益によって形勢分断されるものだと述べています。もちろん現実的にはGeimenschaft からGesellschaft への移行は継続的なのもですから、「社会」には意味や価値を構築する機能がないということではありません。近代において、相対的に「社会」に意味や価値を見つけにくくなるので、個人化が進み「社会」とは別の「共同体」を形成するとかいうようなことです。

そして「国家」ですが、これはある地理上の境界線を持った区域と住民及びそれを統治する行政官僚機構を指します。しかし従来の社会学においては分析対象としての「社会」と「国家」が多くの場合混同または同一視されてきました。その事が現在、グローバル化現象下において従来社会学の極めて重要な欠点であり、早急に検討されなければならない問題点であることは多くの社会学者が指摘していることです。(たとえばBeck)。現在の世界状況において、「社会」を「国家」と同一視するのは、もはや現実的ではないのです。これは、たとえば、多国籍企業の社員の利害が所属する国家と一致しないとかそういうことです。

つまり何が言いたいのかというと、「共同体」「社会」「国家」というのはそれぞれ別の機能を持った集団概念であり、これらを混同するべきではないと言うこと、「共同体の自己保存に関する態度」を表明する対象が国家であるべき必然はどこにもないということです。それどころか、この三つの場のずれは、後期近代化の過程において拡大しつつあるのが現状です。今時「愛国心」などというものは「伝統的共同体」と「行政管理機構」をごっちゃにして刷り込まないとあり得ないもの何じゃないでしょうか?。

故郷に対する愛着とか、「共同体の自己保存に関する態度」を表明する対象としては、家族や地域社会の方がよっぽどリアルであるし、また別の次元において、たとえば共存のための奉仕の対象としては超国家的なNGO/NPOの方がよっぽど倫理的に高潔であったりするわけです。私が「愛情の対象として国家を選択するのは虚しい」と発言したのは以上の理由によります。

とはいえ私とて現在の世界において、我々の生存のための条件を左右する権力がほぼ一極的に国家に集中していること、重要性を否定するものではありません。しかし将来像としては、ある部分の権力は地方自治体に委譲し、またある分の権力は超国家的な組織に委譲し、様々な決定は重層的になされるようになるであろうと思いますし、現実はそのように動いていっていると思います。多くの人間や物資そして情報が安々と国境を飛び越える現在において、国家の役割は、従来よりも遙かに複雑になりつつあります。

此の期において愛国心を叫ぶのは、その変化に伴う国民全般的な不安感によるものという側面も否定はしませんが、それより変化についていけないくせに既得権益だけしっかりにぎった爺が後ろで煽っていませんか?困るんですよ、あの人たち、みんなが国家を素通りして地域社会や国際NGOに貢献することに生き甲斐見つけだしたら。

左翼と右翼

日本でいうところの左翼と右翼というのが実はなんだかよくわかっていないのだが、それでも何故か、左翼過激派呼ばわりされてもたいして気にもとめないが、右翼国粋主義者呼ばわりされるのは心外である。

と言うことはとりあえず自分では左翼と思っているというか。

とはいえ日本の反日左翼と国粋右翼は表裏一体なのでどちらとも関わりたくない。

反日左翼を糾弾する、ネット右翼さんたちに、実は元左翼でしたと言う人達の多さはいったい何なんだ?

曖昧なコスモポリタン

何かと曖昧だと言われる日本人であるが、曖昧ではないものが一つある。
それは自分たちが、日本人で以外であり得ないという、確信である。
境界は太い線でしっかりと敷かれ、本質は永遠に内側にある。
外側は常に外側であり、内側は常に内側と認識される。
我々は内側の存在であり、他所は外に存在する。

ところが
コスモポリタン的現実の輪は捻れている。
内側が外側になり、
また内側になったりする。

徳の高低

昔は、当たり前みたいな道徳説教たれるのがウヨで、それに反発して相対化するのがサヨだったわけだが、それが逆立ちしてしまった図が面白いし、ぶざまとも言える。

http://www.janjan.jp/media/0502/0502133557/1.php

ケンウェルバーというのがどういう人なの私は知りませんが、道徳に発展段階がある、と考える時点ですでに欧州中心主義的な啓蒙を前提としているのは見え見えなので、幅広い層から反発をくらうのは当然でしょう。が、まあこれ、この記事で読む限り、どうやら爺の説教みたいな物で、「君たち自分に都合のよい理屈ばかり並べ立てないで、少しは相手の立場から物を見てご覧なさい」というような極めて常識的なことしか言ってないみたいです。

多くの人が言うように、確かに、道徳(道徳律、規則)なんて相対的なものだ、といってしまえばそれはそのとうりですが、それでも個人及び国家の倫理的な高潔さ(道徳律に対する姿勢)というのは重要な社会要素であり、しいては国際政治の交渉の場においてもどのような倫理的立場からおのおのの国益を語るのかいうのは極めて重要です。

たとえば、昨今のウヨ言説、ここで必ず思考が停止する典型に「拉致問題日帝植民地問題」を北朝鮮側がつなげて語ることは欺瞞である、というのがあります。明らかに継続性のある国家に起こった2つの事件をつなげて語ることが何故そんなに欺瞞なのかよくわかりませんが、この二つの問題をつなげて語ると都合が悪い、明らかに損である、だからどうしてもつなげて語りたくない、という日本人の心情は、まあ、わかります。でも当然、北朝鮮側にしてみれば、この二つの問題を同列に並べ数量化したくなるわけで、これも、私には、わかります。

と、このレベルでは、日本も北朝鮮も双方自分の都合のよい主張をしているだけということです。どちらも得は高くありません。さて、問題はこのままだと話は平行線なので、解決策として、第三者を仲介に立てなければ、成らないということです。仲介者になり得る国というのは、中国、韓国、ロシア、あまり乗り気でないアメリカとありますが、この4国に“「拉致問題日帝植民地問題」をつなげて語るのは欺瞞”、という主張は果たして通用するでしょうか? まず、韓国中国にとっては、もちろん、欺瞞だという方が欺瞞なくらいで、まず無理でしょう。アメリカはまだ北朝鮮悪の枢軸に入れてるようですが、英語圏に於ける一般的なこの件に関する見解としては、「健忘症にかかった旧帝国・現在落ち目の経済大国」と「追い込まれた最後の独裁共産小国」間の問題で、どっちもどっちぐらいに写っているのではないでしょうか。

徳の低い私としては、ここは一つ、倫理的に高潔であった方が、長期的には得かもしれませんよと、申し上げたい。

Rooted cosmopolitanism (p17)

Kant defined cosmopolitanism as a way of combining the universal and the particular- nation and world citizenship. As regards the concept of 'globality' (see Robrtson1992; Albrow 1996), cosmopolitanism signifies rooted cosmopolitanism, having 'roots' and 'wing' at the same time. This definition also casts aside the dominant opposition between cosmopolitans and locals, since there is no cosmopolitanism without localism.