在日外国人の日本国籍取得問題

この問題には、私に言わせると極めて明快な正解がある。日本政府が二重国籍を認めればいい。

こんなサイトがあるのを見つけた。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/4037/citizenship/dual-citizenship.htm


民族主義国家主義的な立場から、燃え上がる反論があるであろう事は、容易に想像できますが、人と物の流れがこれほど流動的になった今日、将来に於ける国家の役割というのを考え直してみる必要があるでしょう。
今現在でも、例外として2国籍を認めることが多々あるようだ。活気ある日本の将来のため、かすみゆく国境を横断するマルチチュード(Neguri/Hardt)のためは、これを原則として認めるべきですが、今の世相ではどうなる事やらわからない。

日本的な何か

「自分で何かを勝ち取ったことのない国」、「外圧に弱い国」、「歴史上革命のない国」云々ということをしきりと強調する人達がここ数年とみに増えたような気がする。しかしこの、自分では自分のことはどうにもできないと言う日本的な何かというのには、いったいどんな根拠があるのだろう?

実際のところはどうも、この「自分たちではどうににもできない日本」という言説が一般に流布し、あたかも歴史的事実のように語られるようになったのは、戦後、それも主1970年代以降のことのようだ。それこそ学生運動に挫折した、サヨク的な世相を一時は反映したものだったようだ。

たとえば、鶴見俊輔氏がどこかに書いていたが、日露戦争の頃までは、明治維新は国民の意志であったという了解が国民の間に広く行き渡っていたそうだ。黒船到来はきっかけであり、開国は自らの意志をもってしたものだと学校でも教えていたそうだ。実際問題として、そういった了解がなければ、相当な苦難を国民に強いた日露戦争を戦うことはできなかったあろうかから、これは説得力のある話ではないかと思う。

だとすれば、その「日本的な何か」は戦後それもここ30年程度で構築されたものであり、全く本質的なものではないということになる。どちらかといえば、それは、挫折したサヨクや、将来に希望がもてず右傾化した人々の、自分を慰めるいいわけにすぎないのではないだろうか? 

誰がネット右翼を製造するか?

誰がネット右翼を製造するか? 

ネットで右翼的な書き込みをしている人達の中のどれほどの人が、果たして自分は右翼であるというアイデンティティーを持っているのだろうか?たいていの場合、せいぜい自分はいわゆる‘サヨク’ではなく、極端な右も左も嫌う真ん中から少し右もしくは少し左程度の常識的な、いわば‘普通’の立場にあるという前提から発言をしている場合がほとんどだろう。その意味において小倉弁護士の組織的な右翼による陰謀説めいた認識は稚拙なだけではなく、かえって‘ネット右翼’というカテゴリーを作り名前を与えることにより、‘ネット右翼’を敵として実在させかねない戦略的にみても愚かな発言と思います。さらに言えば、潜在的小倉弁護士は‘敵’が‘ネット右翼’というアイデンティティーを持つ規定可能な個人または集団であることを望んでいるのかもしれません。悪気はないのでしょうが、敵がそのような明快な輪郭を持った実在物であるならば、自らの立場の正統性を主張するのも遙かに容易に違いありません。しかし残念ながら、事態は遙かに複雑なようです。

“就労の機会を与えられず、一方で無能でも馬鹿でもない人達の一部がネットに流れてきている。彼らは暇であるが故に社会の欺瞞に対する洞察が鋭い。それは右派とか左派とか言う次元の問題ではなく本質的に偽善や欺瞞を嫌うのであろうと思う。なぜなら、彼らは本質的に全く何も悪いことをしていないのに割を食っているのだから”

それと比較して、上記の切り込み隊長の発言には、‘ネット右翼的’発言をする人達に対する遙かに深い洞察が含まれていると思います。先ず第一義に彼らは、最近起こった社会構造変革の犠牲者です。かつてであれば、日本の中産階級の核をになっていたであろう‘普通’の人達です。普通に学校へ行き、普通に勉強し、普通に自分探しなどもして当然普通に就職するのであろうと思っていたものが、突然、社会のルールが変わってしまいました。ここには日本経済の長期にわたる低迷、韓国及び中国経済の繁栄といった地域的な事情もありますが、基本的にはネオ・リベラル経済の世界的な浸透による、雇用形態の変化:終身雇用制度からフレクシブル・スペシャライゼーションへの移行というのが根底にある原因ではないかと思います。グローバル資本は第三世界の安い賃金をフル活用する故、先進国に於ける余剰労働力を構造的に排除します。一握りのエリートを除き、多くの人の生活水準が下がり、労働市場が不安定になるのは、ネオ・リベラル市場経済にある種の統制をかけることが出来ない限り、当然の帰結といわざるを得ないでしょう。一度かわってしまった雇用形態は、日本経済がよくなれば、元に戻る、皆に仕事がある、正社員になれるというものではないでしょう。

無能ではないが、切り込み隊長のように極めて有能でもなく、労働市場から排除されてしまったこの階層の人々が、外国人の権利を擁護する人権弁護士やら、高給取りで中国よりの朝日新聞記者を嫌うというのは、確かにとても合理的な説明だと思います。また:

“実名かハンドルかを問わず情報を発信しようとするような人間は、多かれ少なかれ自分の行為が無駄ではない、あるいは有益であって欲しいと考えているはずである。それは、欺瞞を見つけることで価値観や枠組みの修正をはかり、結果して現状であまり芳しくない自己の情勢を好転させるための活動ではないかと私は思う”。

というのも説得力があります。ただし、隊長のいう欺瞞と言うのは事の真偽、あるいは普遍的な倫理に関する欺瞞ではなく、自分たち、ひいては日本という国が、なぜ割りを食わなければいけないのか納得が出来ないが故の怒りのようなものであると理解します。長年あるルールに沿って生きてきた人間がある日突然ルールを変えられ、期待した将来、安定した生活を送ることが出来なくなる。そして、その事態は変わりつつある世界情勢と深く関係していつ事を知り、周辺国が経済的及び安全保障上の脅威として立ち現れる、というようなことがあれば、自国の利益に反するような事、特にそれを倫理的観点から提唱するものは、すべて欺瞞と写るようになるのだと思います。

悲しいのは、まさしく隊長が言うとおり“ここがフランスであればデモの一つも起きてるはずだ”という状況であるのも関わらず、その無能ではないはずの若者たちが、国会議事堂に火を付けるでもなく、しがない朝日新聞記者のホーム・ページをネット上で燃やし、何かしたような気になっていることでしょう。インターネットには、傷ついた自我を癒し、自意識を膨張させる効能があるといわれていますが、それでは現状維持を肯定し、現実からは排除されたままではないでしょうか?

Knight,, D and Willmott(1989) ’Power and Subjecctivity at Work

On Foucault's writing:

His writing on power are apposite to our project because they directoly challenge and reject discourse founded upon the idea of a transcendental subject whose autonomy resides only in that space not yet colonised by political economy. Rejecting the essentialist view of human nature, subjectivity is understood as a product of disciplinary mechanisms, techniques of surveillance and power-knowledge strategies: human freedom is constituted through theier mediation of subjectivity. Through process of individualization, the activation of autonomy is seen to become preoccupied with discilining the self in ways that secure recognition and confirmation of significant others. Techinologies of power are embraced precisely because they seem capable of providing the security which theur very presence serves to problematise. The investiment of subjectivity in familiar sets of practices... inhabits the potential for disruption precisely by presenting it as a threat to our identity/sense of reality. Nontheless, stimulated by the individualisung effects of modern power regimes, there is always the possibilty of recognising and resisting the pwer induced technologies by which we are captured in our everyday grasping at the straws that confirm our sence of independence and importance.

On Cosmopolitanism and Forgiveness

" If ...such a language combines and accumulates powerful traditions within it ('Abrahamic culture and that of a philosophical humanism, and more precisely a cosmopolitan born from a graft of stoicism with Pauline Cristianity), why does it impose itself on cultures which do not have European or 'biblical' origin? I am thinking of those scenes where Japanese Prime Minister 'asked forgiveness' of the Korean and the Chinese for past violence." (Derrida, 2001, p31)

以上最近無くなった哲学者デリダからの引用です。ここで彼は、謝罪・許しというキリスト教文化圏で培われた慣習が如何にして、国際政治の舞台において、個々の文化の独自性を越え、ユニバーサルな慣習として受け入れられるようになったのかと問うています。そして、その具体例として、日本の総理大臣が韓国と中国に対して、過去の暴力を謝罪した事をあげています。

平たく言って、よくデリダの最も重要な業績というは, Euro-centrism/ Male centrism の deconstruction ひいてはユニバーサリズム脱構築であると言われています。ところが、(たとえばScot Lash, Another Modernity: Deferent Rationality, 1999等によると)デリダが実際に、ユニバーサリズム(超文化的な共通理解の基盤)の可能性を否定したことはありません。

デリダの差異遅延(Defarence)の理論は多くのポスト・コロニアリストたちのよって引用され、西洋優越主義的なユニバーサリズム脱構築、そして相対化に援用されてきました。しかしデリダ自身と彼の哲学は、その脱構築の結果として現れたポストモダン的な相対主義(relativism)に決して組みするものでは無かったようです。彼の晩年のエッセイに当たるこのコスモポリタニスムに関するエッセイにおいて、彼はユニバーサルな人間理解の可能性を考察しています。

ユニバーサルな共通理解、たとえば歴史的理解、を構築しようとする努力にに対する相対主義者たちからのよくある批判として、’現在の価値基準で当時の事実を断罪する’というのがあります。つまり、今と昔では事情が違い価値観も違うのだから、今の我々の価値基準では過去の人々の行動についてとやかく言うことは出来ない、というものです。たとえば、かつては帝国主義植民地主義は列強国間において規範であったのだから、そのことによって、日本のアジアにおける侵略行為を非難することは出来ない、とするものです。しかしこれは明らかな、はてな、詭弁です。

まず第一に、確かに日本の帝国主義植民地主義だけを非難することは出来ませんが、帝国主義植民地主義そのものを、現在の視点から非難することに問題が無いことは明瞭でしょう。”列強国間において規範であった”というのは、みんなやっていたから自分もやったという類の言い訳以上の倫理的根拠は何もありません。どうも、多くの日本人は、自国の帝国主義的過去について責められると、自分たちばかりが責められているような気分になるようです。たとえ実際の状況が、海外で韓国人や中国人に囲まれて責められているのが日本人自分一人だけだったとしても、本質的にこの問題は、全人類的、ユニバーサルな背景があること認識すべきだと思います。

そして第二は、過去は常に現在の視点からのみ評価が可能であると言うことを明快に理解するべきでしょう。過去における価値観がどうであったかとという説明は、事の顛末を理解する助けにはまりますが、そのことによって行為を正当化することは出来ません。過去における価値観の違いを理由に、現在における過去の行為の評価を反故にすることは不可能です。過去においては百人切りが英雄的な行為であったとしても、そのことによって百人切りは野蛮行為で無くなるわけではありません。また、現代人である我々が、百人切りがかつて英雄行為と見なされていた時代があった、ということを理由に判断を停止することは、倫理的な怠慢無責任にすぎません。

Globali transformation

Cultural globalization is transforming the context in which and the means through which national culture are produced and reproduced, but its particular impact on the nature and effecacy of national culturres - on the hold and influence of thier message, values and content - is as yet, harder to decipher(Held, 1999,p328)