On Cosmopolitanism and Forgiveness

" If ...such a language combines and accumulates powerful traditions within it ('Abrahamic culture and that of a philosophical humanism, and more precisely a cosmopolitan born from a graft of stoicism with Pauline Cristianity), why does it impose itself on cultures which do not have European or 'biblical' origin? I am thinking of those scenes where Japanese Prime Minister 'asked forgiveness' of the Korean and the Chinese for past violence." (Derrida, 2001, p31)

以上最近無くなった哲学者デリダからの引用です。ここで彼は、謝罪・許しというキリスト教文化圏で培われた慣習が如何にして、国際政治の舞台において、個々の文化の独自性を越え、ユニバーサルな慣習として受け入れられるようになったのかと問うています。そして、その具体例として、日本の総理大臣が韓国と中国に対して、過去の暴力を謝罪した事をあげています。

平たく言って、よくデリダの最も重要な業績というは, Euro-centrism/ Male centrism の deconstruction ひいてはユニバーサリズム脱構築であると言われています。ところが、(たとえばScot Lash, Another Modernity: Deferent Rationality, 1999等によると)デリダが実際に、ユニバーサリズム(超文化的な共通理解の基盤)の可能性を否定したことはありません。

デリダの差異遅延(Defarence)の理論は多くのポスト・コロニアリストたちのよって引用され、西洋優越主義的なユニバーサリズム脱構築、そして相対化に援用されてきました。しかしデリダ自身と彼の哲学は、その脱構築の結果として現れたポストモダン的な相対主義(relativism)に決して組みするものでは無かったようです。彼の晩年のエッセイに当たるこのコスモポリタニスムに関するエッセイにおいて、彼はユニバーサルな人間理解の可能性を考察しています。

ユニバーサルな共通理解、たとえば歴史的理解、を構築しようとする努力にに対する相対主義者たちからのよくある批判として、’現在の価値基準で当時の事実を断罪する’というのがあります。つまり、今と昔では事情が違い価値観も違うのだから、今の我々の価値基準では過去の人々の行動についてとやかく言うことは出来ない、というものです。たとえば、かつては帝国主義植民地主義は列強国間において規範であったのだから、そのことによって、日本のアジアにおける侵略行為を非難することは出来ない、とするものです。しかしこれは明らかな、はてな、詭弁です。

まず第一に、確かに日本の帝国主義植民地主義だけを非難することは出来ませんが、帝国主義植民地主義そのものを、現在の視点から非難することに問題が無いことは明瞭でしょう。”列強国間において規範であった”というのは、みんなやっていたから自分もやったという類の言い訳以上の倫理的根拠は何もありません。どうも、多くの日本人は、自国の帝国主義的過去について責められると、自分たちばかりが責められているような気分になるようです。たとえ実際の状況が、海外で韓国人や中国人に囲まれて責められているのが日本人自分一人だけだったとしても、本質的にこの問題は、全人類的、ユニバーサルな背景があること認識すべきだと思います。

そして第二は、過去は常に現在の視点からのみ評価が可能であると言うことを明快に理解するべきでしょう。過去における価値観がどうであったかとという説明は、事の顛末を理解する助けにはまりますが、そのことによって行為を正当化することは出来ません。過去における価値観の違いを理由に、現在における過去の行為の評価を反故にすることは不可能です。過去においては百人切りが英雄的な行為であったとしても、そのことによって百人切りは野蛮行為で無くなるわけではありません。また、現代人である我々が、百人切りがかつて英雄行為と見なされていた時代があった、ということを理由に判断を停止することは、倫理的な怠慢無責任にすぎません。