日本的な何か

「自分で何かを勝ち取ったことのない国」、「外圧に弱い国」、「歴史上革命のない国」云々ということをしきりと強調する人達がここ数年とみに増えたような気がする。しかしこの、自分では自分のことはどうにもできないと言う日本的な何かというのには、いったいどんな根拠があるのだろう?

実際のところはどうも、この「自分たちではどうににもできない日本」という言説が一般に流布し、あたかも歴史的事実のように語られるようになったのは、戦後、それも主1970年代以降のことのようだ。それこそ学生運動に挫折した、サヨク的な世相を一時は反映したものだったようだ。

たとえば、鶴見俊輔氏がどこかに書いていたが、日露戦争の頃までは、明治維新は国民の意志であったという了解が国民の間に広く行き渡っていたそうだ。黒船到来はきっかけであり、開国は自らの意志をもってしたものだと学校でも教えていたそうだ。実際問題として、そういった了解がなければ、相当な苦難を国民に強いた日露戦争を戦うことはできなかったあろうかから、これは説得力のある話ではないかと思う。

だとすれば、その「日本的な何か」は戦後それもここ30年程度で構築されたものであり、全く本質的なものではないということになる。どちらかといえば、それは、挫折したサヨクや、将来に希望がもてず右傾化した人々の、自分を慰めるいいわけにすぎないのではないだろうか?