愛国心の自家発電

このエントリーは「湾曲していく日常」のコメント欄に於けるやりとりの続きです。以下をご覧下さい。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050320


Swan_slabさんの発言には私としても興味のある、きちんと話し合いたい論点がいくつもあるのですが、何せ遅筆故、そのうちの幾つかだけをとりだし、私の立場との相違をまず際だたせたいと思います。大雑把な議論になると思いますがお許し下さい。説明が不足しすぎた場合は、質問いただければ補足します。

>>私見ですが、ロックの寛容書簡の読み方としては、現代の民主主義と人権に関するエッセンシャリズムにどの程度の射程をもっているかという観点から読むようにしています。

とSwan_slabさんは書かれました。もし、これがSwan_Slabさんが仰る人権等ある価値観の「自明性」、あるいはドイツに於ける「自然法の再生」を、ある種戦略的なものとして理解する、という意味であるならば、たぶん私の立場から、そう遠くはないもののように思えます。微妙な立場なのですが、私はあらゆる普遍的道徳律を相対化するポストモダン的な立場に組みするものではありません。が、また同時に、自省のない「自然法の自明性」には強く反対するものでもあります。欧州のある特殊な歴史的文脈の中で「自明の真理」であったことを他の文脈に移植したところで、その自明性は説得力を失うのが通常です。そもそもドイツにおいては自明なものが日本では自明でないからこういう事態になってるわけですから。私の立場は、いうならば、自明ではない道徳律と倫理を、価値観の違うものが戦略的にせめぎ合って、ある程度の普遍性をもつものであると合意形成することを由とします。これ、現実には果てしなく難しいですけど。

で、話は飛びますが「愛国心」です。

問題にしなければならないのは、「よい愛国心」と「悪い愛国心」ではなく、国家という単位がSwan_slabさんが言うところの「共同体の自己保存に関する態度」を表明する対象として、現代においてどの程度適切であるか、ということだと私は考えています。

ある社会学者(Scott Lash)はTonniesのGeimenschaft-Gesellschaft(伝統的共同体ム近代社会)を元に、共同体と社会という概念の違いについて分析しています。Lash によると、その最も特徴的な違いは、「共同体」が文化的な意味や価値観を構築する場であるのに対し、「社会」とは共通の利益によって形勢分断されるものだと述べています。もちろん現実的にはGeimenschaft からGesellschaft への移行は継続的なのもですから、「社会」には意味や価値を構築する機能がないということではありません。近代において、相対的に「社会」に意味や価値を見つけにくくなるので、個人化が進み「社会」とは別の「共同体」を形成するとかいうようなことです。

そして「国家」ですが、これはある地理上の境界線を持った区域と住民及びそれを統治する行政官僚機構を指します。しかし従来の社会学においては分析対象としての「社会」と「国家」が多くの場合混同または同一視されてきました。その事が現在、グローバル化現象下において従来社会学の極めて重要な欠点であり、早急に検討されなければならない問題点であることは多くの社会学者が指摘していることです。(たとえばBeck)。現在の世界状況において、「社会」を「国家」と同一視するのは、もはや現実的ではないのです。これは、たとえば、多国籍企業の社員の利害が所属する国家と一致しないとかそういうことです。

つまり何が言いたいのかというと、「共同体」「社会」「国家」というのはそれぞれ別の機能を持った集団概念であり、これらを混同するべきではないと言うこと、「共同体の自己保存に関する態度」を表明する対象が国家であるべき必然はどこにもないということです。それどころか、この三つの場のずれは、後期近代化の過程において拡大しつつあるのが現状です。今時「愛国心」などというものは「伝統的共同体」と「行政管理機構」をごっちゃにして刷り込まないとあり得ないもの何じゃないでしょうか?。

故郷に対する愛着とか、「共同体の自己保存に関する態度」を表明する対象としては、家族や地域社会の方がよっぽどリアルであるし、また別の次元において、たとえば共存のための奉仕の対象としては超国家的なNGO/NPOの方がよっぽど倫理的に高潔であったりするわけです。私が「愛情の対象として国家を選択するのは虚しい」と発言したのは以上の理由によります。

とはいえ私とて現在の世界において、我々の生存のための条件を左右する権力がほぼ一極的に国家に集中していること、重要性を否定するものではありません。しかし将来像としては、ある部分の権力は地方自治体に委譲し、またある分の権力は超国家的な組織に委譲し、様々な決定は重層的になされるようになるであろうと思いますし、現実はそのように動いていっていると思います。多くの人間や物資そして情報が安々と国境を飛び越える現在において、国家の役割は、従来よりも遙かに複雑になりつつあります。

此の期において愛国心を叫ぶのは、その変化に伴う国民全般的な不安感によるものという側面も否定はしませんが、それより変化についていけないくせに既得権益だけしっかりにぎった爺が後ろで煽っていませんか?困るんですよ、あの人たち、みんなが国家を素通りして地域社会や国際NGOに貢献することに生き甲斐見つけだしたら。