愛国心は錯誤か?

先日のコメント欄の続きです。

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マルキシスト的な考え方をしていくと、「愛国心」=「虚偽観念(イデオロギー)」=錯誤という事になるわけですが、実は私はそうは考えていません。その考え方に沿っていくと「錯誤」を取り除けば、背後にある正しい現実認識へ到達できると想定されるわけです。しかし、私は、人間社会における現実というのは、自然科学によって認識される現実よりはるかに流動性が高く、認識行為自体によって造られるものであるということを忘れてはならないと思っています。

アンソニー・ギデンスは社会学の中心的命題とは、「How the action of human subjects constitutes a social world that in turn conditions the possibility of the actions of those subjects - 如何に人間主体の行動が社会を作るかと同時に、社会によって人間主体の行動は条件ずけられるか」を記述する事にあるとしています。つまり、社会的現実とは、人間が造り出すものでありながら人間を造り出すものでもあります。

人間は家族愛や郷土愛を造り、また家族愛郷土愛によって造られてきました。抽象の次元を広げていけば、愛国心を造り、また愛国心によって造られる事も、確かに可能だと思います。ただし、「家族愛」や「郷土愛」の場合は具体的な人間同士のやりとりに積極的に参加し相互的に培っていくことが可能ですが、「愛国心」の場合は抽象の次元がたいへん高いので、多くの個人に取って直接的な過程への参加は難しく、与えられたものを内面化する以外に無いでしょう。

また、家族や郷土の人間的なリアルさに対し、国家のリアルさというのは全く性質を異にするものです。ホブスに従えば、国家のリアルさというのは先ず第一に憲法によって国民から委託された暴力の独占使用権です。司法立法、徴税、警察、軍事権です。家族や郷土の人間的なリアルさが、愛情を呼び起こすというのは容易に理解可能ですが、国家のリアルさというのは人間を萎縮させ恐怖心をこそ呼び起こせ、愛情を呼び起こすというのは私には理解出来ません。(宮台信真司あたりだと日本人はヘタレだから権力を愛するとか言うのかもしれませんけど。)

国防問題に関して実はそれほど深く考えたことはないのですが、戦争というもの質が9/11以来決定的に変わったことは確かだと思います。それにしても旧来型の国と国とが領土の覇権を争い、国民軍が戦うという図式はますます考えづらくなっていると思います。イラク戦争の状況を見ていても、戦争すらも相当の程度まで民営化が進んでいて、愛国心がどーだと言う世界ではなくなってきているのではないでしょうか?