愛国心はなぜ、悪いか?

愛国心が叫ばれはじめると困ることとはいったいどのようなことをさすのでしょうか?

という設問に対して、Identity (自己同一性)の見地から主に考えてみたいと思います。Swan_slabさんが仰るように現代社会では人は誰でも複数の自己を持ち、その場その場の状況や人間関係によって使い分けて暮らしています。では、その複数ある自己の、連続性と同一性を保証しているものは何なのでしょうか?我々は数々の役割を日常の中でこなし、場合によっては別人のような振る舞いをし、それでも私が私であるといっていられる根拠はどこにあるのでしょうか?フッサール現象学超自我フロイトは無意識、ハイデッカーはBeingという概念を使ってこれを説明しようとしました。それらはどれも本質主義的概念で、それぞれの個人の中に内在する、平たく言ってしまえば、‘真実の自分’みたいなものです。でも、‘真実の自分’なんてほんとうにあるのでしょうか? 会社員としての自分と、父親としての自分と、だらしない酔っぱらいとしての自分と、どれが‘真実の自分’だと言えるのでしょうか? 

社会学的な回答は、そんなもの存在しない、です。
では、人はいかにして、分裂病に陥らず、複数の自分を生きていくことは可能なのでしょうか? 

ここに1970年代から80年代に於ける、構造主義ポスト構造主義の成果があります。それは、大雑把に言うと、差異のシステムによって他人との違いを造り出すことによって、人は自分が自分であるということを確認する、というものです。これは「私」は「貴方」ではないということによって初めて「私」であるという考え方であり、「他者」の存在なしに「私」の存在はあり得ないと言うことです。

この、差異理論は、集団に当てはめることも可能です。日本人とは何でしょうか?日本にはそれこそ雑多な1億人以上の人間がいて、その共通点を矛盾なしに日本人とはこういうものであると提出することは不可能です。日本人とは、中国人ではなく、朝鮮人ではなく、アメリカ人でもヨーロッパ人でもないものであるという他者との差異によってのみ、日本人であることの意味は、構築されます。

さて、ここからが本題の「愛国心」についてです。なぜ、「愛国心」はよろしくないか?

すでに「愛国心」が家族愛や郷土愛のようには日常生活の中で育まれる可能性のない抽象的な概念であることは述べました。そして国家のリアルさがその暴力の独占使用権によるものであることも述べました。暴力は通常恐怖を呼び起こしすれ、愛情を呼び起こさない事も述べました。ここで重要なのは、「愛国心」というのは、通常の平穏な状況においては、非常に実現されにくい感情であるということです。

では、いかなる状況において、「愛国心」は実現されるのでしょうか?ご存じのように、日本人とは何であるかを規定する他者が、「敵」として現れた場合です。平時には不可能な感情が、「敵」の出現とともに可能になります。そして、ここが肝心なところですが、「敵」と「愛国心」は差異システム上「他者」と「自己」の関係にあります。それは相互補足的な関係です。「他者」の存在なしには「私」のアイデンティティーが崩壊するように、「愛国心」は「敵」なしには崩壊します。「愛国心」は「敵」を必要とし、また、造り出します。

以上が、「愛国心」がよろしくない理由でした。

サッカーの試合の場合のようにある程度は「愛国心」もご愛敬ですが、この、愛国心と敵の相互補完的な関係には充分自覚的であるべきだと思います。