無臭文化

テクノロジーには文化の臭いがない。ウォークマン着装でセントラルパークをジョギングするアメリカ人にとって、ウォークマン日本製品でということは、関係がない、あるいは差し障りがない。テクノロジーをどのように使用するのか、生活上の意味を持たせるのか、テクノロジーを解釈するにあたって、それが生産国特有の文化によって制限されることはあまりない。ある程度あったとしても、消費者は自由にそのの意味を捏造・流用する事が可能であるし、それが可能であるからこそ、その商品は売れる。

日本のコンテンツ輸出に関しても、基本的には、同様のことが言える。最も輸出されているコンテンツはアニメだが、アニメには文化の臭いがない。登場人物の人種国籍は多くの場合不明であり、台詞の吹き替えが簡単である。言ってしまえば、ローカライズが実写ものの映画等とくらべ、遙かに簡単である。つまり、日本のアニメは確かに輸出されているが、これはいわゆる日本の臭いがしないから、輸出可能なわけで、これを持ってして’日本の文化力’が云々というのはどうかと思う。

ある文化物が国境を越えるとき、それは消費する側の文化物として越える。戦後、ディズニーアニメに心酔した手塚治虫はストーリー漫画を生み出した。日本の漫画が、世界のどこかで、現地のクリエーターの想像力によって、全く新しい表現を生み出したとき、’日本の文化力’なるものを少しは考えてみてもよいかもしれない。