Waht do we know about entertaining Americans??

Momoire of Geisha- Syuri観てきました。

個人的に見所の多い面白い映画でした。
とはいえ、客観的にドラマとしての評価してどうかと聞かれれば、それは高くありません。芸者置屋に売られていって、つらい子供時代に親切にかき氷を買ってくれたおじさん、Cheermanに恋をして芸者になる決意をするとか、その思いは変わらないとか、陳腐な設定と薄っぺらなキャラクターが多すぎます。

日本文化問題、中国人女優が主演クラスをしめるとか、着物の着方がおかしいとか踊りが日本舞踊ぽくないとかいろいろ聞いていましたがそれは気になりませんでした。コン・リーの髪型着物の着くづし方等々が日活ロマンポルノ風なので、芸者と花魁を混乱している風でしたがそれはそれで艶っぽくて美しかったので個人的にokです。薄いキャラクターが多い中、コンリーの役が最も興味深い人物でした。主役のZiyiに意地悪し続けて最後は置屋に火を付けて出ていってしまうのですが、彼女のその後が描かれてないのが残念でした。

まず映画の初っぱなから驚いたのは、この映画、日本語から始まること。お話は貧しい漁村で主人公が親に売られるところから始まるのですが、この一部始終が字幕無しの日本語です。スクリーン・タイムにして2−3分だったと思いますが、これはかなり珍しい導入です。ハリウッドの因習として、舞台登場人物がどこで何人であろうと英語をしゃべるというのが定式化しているわけですが、この映画は若干ながらこの定式を崩しています。主人公貧乏未開な生まれ故郷を離れ、汽車に乗せられたあたりから英語のナレーションはじまり、汽車が文明世界、京都に着くとそこは英語の世界です。

これは、さすがに最近はアメリカでも、世界中どこでも誰でも英語をしゃべるというのはいくら何でもリアルではない、という認識が芽生え始めた証拠のように思われます。とはいえ字幕映画は敬遠されるし何とか工夫は出来ないものか、如何に異文化世界へ観客を導入していくか、苦肉の策ではないかと思われます。劇中の日本語チャンポンといえ、ハイブリッド日本舞踊、着物、髪型と、逆にそこら辺が個人的には見所でした。

とはいえ問題点は、これは意図したことではないと思われますが、結果貧乏未開な土地では現地語を話すが、文明化された場所では英語を話すという図式になってしまったところがまずいところだと思います。

ところで、戦後洋パン化した工藤ゆきが洋パンのふりをしているZIYIに復讐します。その時工藤ゆきは、’You taken away what was the most from me. Now you know what it feels like'と言います。

さて、いったい何が、the most important, なのでしょう?