Munic

確かにこの映画をユダヤ人勢力が牛耳るハリウッドでつくるというのは並大抵のことではないのだろうと思います。

Inspired by real event.とはじまりに出てきますが、この手の現実の事件を素材にした映画、それも政治的に微妙な素材を扱う場合、通常の劇的な手法がどこまで有効なのか、考えさせられるところです。たとえば、情報の鍵を握るフランス人パパ家族の存在ですが、この設定はいかにもスパイ暗躍ものジャンルにありそうな設定で、陳腐であり、スピルバーグの史実とその隙間を埋める想像力の在り方に問題がるように思います。また、ラブシーンとMunicテロ現場の殺戮シーンがインターカットされるのもいただけませんでした。こういうことをすると、作り手のあざとさが、目に付きすぎます。

この映画の言わんとするところに個人的には賛同できるのですが、これで人を説得できるのか、考えさせることができるのかというと、ちょっと難しいのではないかと思いました。

constant gardener

市民活動家の英国人女性が外交官と結婚してケニアに行く。そこで無料医療と引き替えに新薬の人体験をアフリカで行う製薬会社と、英国政府の裏取引を告発しようとするが殺される。

よくできたありそうな話。

貧しいものに選択の余地はない。人体を売る。しかしそのこと自体はスキャンダルとはならない。

問題はそうして行われた人体実験の結果、新薬に生死に関わる副作用があることがわかり、その事を英国政府と製薬会社が結託して握りつぶそうとしたことによる。
欠陥のある新薬が、地域の雇用促進と企業利益のため、アフリカ人のみならずヨーロッパの人間までにも危害を及ぼしそうになったとき、問題は重要性を帯びてくる。

よくできたありそうな話である。

Jar Head

サム・メンデスの新作。

同等と結末に同じナレーションが繰り返される。
「・・・一度ライフル持った手は、その事を忘れない。その手で家を建てようと、恋人を愛そうと、赤ん坊のおむつを取り替えようと。海兵隊員は、その手でライフルを握った事は消し去れない。」

第一次湾岸戦争に送られた海兵隊員の話。
コンピューター・ゲーム戦争といわれたもの戦争で、砂漠に送り込まれた海兵隊員のやることは、実はあまりない。実際の戦闘はミサイルと戦闘機からの爆撃で行われ、ライフルを手に持った海兵隊員が実際の戦討どころか、敵に出くわすこともない。焼ける暑さの中でガスマスクと防護服に包まれて、無意味な訓練を繰り返す。出くわすのは、爆撃で、すでに黒こげになった死体ばかりだ。

結局海兵隊員たちは、一人の敵を殺すこともなく、国に帰ってくる。

この映画が言いたいのは、それでも彼らの人生はどうしようもなく変わってしまったと言うことのようだが、それが何故なのか、残念ながら、中途半端にしか伝わってこない。

Brokeback mountain

Ange Lee監督評判のゲイ映画。

とはいえうちの近所の映画館はかなりの入りで、多くはヘテロカップル、見た目で明らかにゲイ風な人達というのは目に付かなかった。これはもうあれから20年近くが経つわけだけど、Ang Leeがウェディング・バンケットつくったときとかなり違った状況があるわけですね。それにあわせてか内容的にも、アメリカの中でも最も保守的な地域の保守的なひとたちのゲイ物語です。よくできた映画だとは思いましたが、僕はあまり入り込めませんでした。

Waht do we know about entertaining Americans??

Momoire of Geisha- Syuri観てきました。

個人的に見所の多い面白い映画でした。
とはいえ、客観的にドラマとしての評価してどうかと聞かれれば、それは高くありません。芸者置屋に売られていって、つらい子供時代に親切にかき氷を買ってくれたおじさん、Cheermanに恋をして芸者になる決意をするとか、その思いは変わらないとか、陳腐な設定と薄っぺらなキャラクターが多すぎます。

日本文化問題、中国人女優が主演クラスをしめるとか、着物の着方がおかしいとか踊りが日本舞踊ぽくないとかいろいろ聞いていましたがそれは気になりませんでした。コン・リーの髪型着物の着くづし方等々が日活ロマンポルノ風なので、芸者と花魁を混乱している風でしたがそれはそれで艶っぽくて美しかったので個人的にokです。薄いキャラクターが多い中、コンリーの役が最も興味深い人物でした。主役のZiyiに意地悪し続けて最後は置屋に火を付けて出ていってしまうのですが、彼女のその後が描かれてないのが残念でした。

まず映画の初っぱなから驚いたのは、この映画、日本語から始まること。お話は貧しい漁村で主人公が親に売られるところから始まるのですが、この一部始終が字幕無しの日本語です。スクリーン・タイムにして2−3分だったと思いますが、これはかなり珍しい導入です。ハリウッドの因習として、舞台登場人物がどこで何人であろうと英語をしゃべるというのが定式化しているわけですが、この映画は若干ながらこの定式を崩しています。主人公貧乏未開な生まれ故郷を離れ、汽車に乗せられたあたりから英語のナレーションはじまり、汽車が文明世界、京都に着くとそこは英語の世界です。

これは、さすがに最近はアメリカでも、世界中どこでも誰でも英語をしゃべるというのはいくら何でもリアルではない、という認識が芽生え始めた証拠のように思われます。とはいえ字幕映画は敬遠されるし何とか工夫は出来ないものか、如何に異文化世界へ観客を導入していくか、苦肉の策ではないかと思われます。劇中の日本語チャンポンといえ、ハイブリッド日本舞踊、着物、髪型と、逆にそこら辺が個人的には見所でした。

とはいえ問題点は、これは意図したことではないと思われますが、結果貧乏未開な土地では現地語を話すが、文明化された場所では英語を話すという図式になってしまったところがまずいところだと思います。

ところで、戦後洋パン化した工藤ゆきが洋パンのふりをしているZIYIに復讐します。その時工藤ゆきは、’You taken away what was the most from me. Now you know what it feels like'と言います。

さて、いったい何が、the most important, なのでしょう?

グローバル資本主義下の職業倫理は人権を守るか?

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060114

ホテル・ルワンダについて

貧乏人は死ねという言うのもグローバル資本主義なら、お金さえ払えば皆平等にお客であるというのも確かにグローバル資本主義の一面ではあるでしょう。でも、これを持って、職業倫理が差別をなくすというのは楽観的すぎると思います。

テルルワンダでは、主人公の奥さんがツチだったのは重要だし、近所の人達をホテルにかくまって、’他のお客様に迷惑になっても出てってくださいとは言わなかった。そこには職業倫理を越えたものが明らかにあったわけで、そこは明解にすべきだと思います。グローバル資本主義が世界を救うわけじゃないですから。

愛国心はなぜ、悪いか?

愛国心が叫ばれはじめると困ることとはいったいどのようなことをさすのでしょうか?

という設問に対して、Identity (自己同一性)の見地から主に考えてみたいと思います。Swan_slabさんが仰るように現代社会では人は誰でも複数の自己を持ち、その場その場の状況や人間関係によって使い分けて暮らしています。では、その複数ある自己の、連続性と同一性を保証しているものは何なのでしょうか?我々は数々の役割を日常の中でこなし、場合によっては別人のような振る舞いをし、それでも私が私であるといっていられる根拠はどこにあるのでしょうか?フッサール現象学超自我フロイトは無意識、ハイデッカーはBeingという概念を使ってこれを説明しようとしました。それらはどれも本質主義的概念で、それぞれの個人の中に内在する、平たく言ってしまえば、‘真実の自分’みたいなものです。でも、‘真実の自分’なんてほんとうにあるのでしょうか? 会社員としての自分と、父親としての自分と、だらしない酔っぱらいとしての自分と、どれが‘真実の自分’だと言えるのでしょうか? 

社会学的な回答は、そんなもの存在しない、です。
では、人はいかにして、分裂病に陥らず、複数の自分を生きていくことは可能なのでしょうか? 

ここに1970年代から80年代に於ける、構造主義ポスト構造主義の成果があります。それは、大雑把に言うと、差異のシステムによって他人との違いを造り出すことによって、人は自分が自分であるということを確認する、というものです。これは「私」は「貴方」ではないということによって初めて「私」であるという考え方であり、「他者」の存在なしに「私」の存在はあり得ないと言うことです。

この、差異理論は、集団に当てはめることも可能です。日本人とは何でしょうか?日本にはそれこそ雑多な1億人以上の人間がいて、その共通点を矛盾なしに日本人とはこういうものであると提出することは不可能です。日本人とは、中国人ではなく、朝鮮人ではなく、アメリカ人でもヨーロッパ人でもないものであるという他者との差異によってのみ、日本人であることの意味は、構築されます。

さて、ここからが本題の「愛国心」についてです。なぜ、「愛国心」はよろしくないか?

すでに「愛国心」が家族愛や郷土愛のようには日常生活の中で育まれる可能性のない抽象的な概念であることは述べました。そして国家のリアルさがその暴力の独占使用権によるものであることも述べました。暴力は通常恐怖を呼び起こしすれ、愛情を呼び起こさない事も述べました。ここで重要なのは、「愛国心」というのは、通常の平穏な状況においては、非常に実現されにくい感情であるということです。

では、いかなる状況において、「愛国心」は実現されるのでしょうか?ご存じのように、日本人とは何であるかを規定する他者が、「敵」として現れた場合です。平時には不可能な感情が、「敵」の出現とともに可能になります。そして、ここが肝心なところですが、「敵」と「愛国心」は差異システム上「他者」と「自己」の関係にあります。それは相互補足的な関係です。「他者」の存在なしには「私」のアイデンティティーが崩壊するように、「愛国心」は「敵」なしには崩壊します。「愛国心」は「敵」を必要とし、また、造り出します。

以上が、「愛国心」がよろしくない理由でした。

サッカーの試合の場合のようにある程度は「愛国心」もご愛敬ですが、この、愛国心と敵の相互補完的な関係には充分自覚的であるべきだと思います。